文学・会議

海外文学を中心に、読書の備忘録です。

冨田恭彦『観念論の教室』

冨田恭彦

『観念論の教室』 ちくま新書

 

冨田恭彦の『観念論の教室』を読了しました。本書の主題となっているのは、ジョージ・バークリーの観念論(彼自身の言い方を使えば「物質否定論」)なのですが、「観念」という言葉のルーツを古代ギリシアの原子論、そして近代哲学の祖・デカルトに遡りながら、イギリス経験論の先達であるロックや、さらにカントの超越論的観念論として結実する後世ドイツの哲学までが論じられています。

 

ロック研究者である冨田氏は、本書において、ロック批判を展開したバークリー哲学の批判的読解を行うのですが、冨田氏のバークリー批判のポイントを端的にいえば、それはバークリーが「観念を出発点として選んだこと」だといえます。『ロック哲学の隠された論理』におけるロック解釈から、『観念論ってなに?』等の著作を経て展開された冨田氏のバークリー哲学の批判的読解の論述は、本書で提示された「ヒベルニア路線」という説明において、最大の解りやすさを得ているのではないかと思います。マスターアーギュメントに関する論も興味深く読むことができました。

 

【満足度】★★★★☆

 

 

フォークナー『アブサロム、アブサロム!』

フォークナー 藤平育子訳

アブサロム、アブサロム!』 岩波文庫

 

フォークナー(1897-1962)の『アブサロム、アブサロム!』を読了しました。解説によれば、フォークナーは本書が完成したときに「アメリカ人によってそれまでに書かれた中で最高の小説だと思う」という自負を述べたとのことですが、たしかにそれだけの器の大きさを感じさせられる作品でした。少なくとも、いまだ書かれざる「偉大なるアメリカ小説」の候補として本書が挙げられたとしても、それに反対する意見は少ないのではないかと思います。

 

ウェスト・バージニアの片田舎で生まれたトマス・サトペンという男が、南部のミシシッピ州にあるヨクナパトーファ(フォークナーが案出した架空の土地)で農場主として財を築きながら、やがて一族ともども滅びを迎えていく様子を描いたのが本書なのですが、物語自体はこのように直線的な仕方で語られるわけではなく、時制や語りの主体を入れ替えながら、まるで謎めいた神話のような物語として、読者である私たちに提示されます。ガルシア=マルケスやバルガス=リョサといった「方法に自覚的な」作家に大きな影響を与えているフォークナーですが、たしかに本書に見られるような語りの手法や構造こそが、この小説の魅力を一段と高めていることに間違いはないと感じます。

 

今回読んだ岩波文庫は、冒頭に登場人物表や家系図、また各章の語りについての解説が置かれており(さらに下巻には作中のエピソードが年表形式で時系列にまとめられています)、読者にとっては極めて親切設計です。同じく岩波文庫トルストイの『戦争と平和』を読んだときは、こうした「付録」が大変役に立ちましたし、今回もこの親切設計のおかげで本作の見通しが格段に良くなったことは確かなのですが、初読のときから作品の「絵解き」を楽しみたい上級者にとっては、別の版で読むのが良いのかもしれません。

 

【満足度】★★★★☆

カロッサ『指導と信従』

カロッサ 国松孝二訳

『指導と信従』 岩波文庫

 

カロッサ(1878-1956)の『指導と信従』を読了しました。ハンス・カロッサはドイツの詩人・小説家で医者でもあります。小説作品には自伝的なものが多く、本書も幼年時代から、医師としての生活、そしてシュテファン・ツヴァイクリルケなど、同時代の文学者との交友が語られます。

 

医者であり作家であることをやめなかったカロッサですが、訳者あとがきで「『指導と信従』の世界は、これら二つの周圏からなる楕円の世界である」と的確に述べられているように、両者が別々の軸を持ちながらも交じり合う様がこの作品の魅力になっているのだと思います。ヴェルレーヌの詩のドイツ語訳をツヴァイクに依頼されたカロッサが、意気揚々と訳業に取り掛かるものの、聴診器と患者名簿が並ぶ机に辞典を広げて訳稿に取り組んだ後、それが「何の価値もありはしない」ものだと気づいてツヴァイクに断りの連絡を入れる様子は、著者の文学的な誠実さを伝えるエピソードになっています。

 

【満足度】★★★☆☆

ジル=ガストン・グランジェ『科学の本質と多様性』

ジル=ガストン・グランジェ 松田克進・三宅岳史・中村大介

『科学の本質と多様性』 文庫クセジュ

 

ジル=ガストン・グランジェ(1920-)の『科学の本質と多様性』を読了しました。「私は何を知るか?」を意味するフランス語の名前が冠せられた、文庫クセジュを読むのは何年ぶりのことでしょうか。

 

著者は現代フランスの科学認識論の第一人者とのこと。最近の日本では英米系の分析哲学・科学哲学の紹介は充実していますが、フランス流の科学哲学である科学認識論の紹介はそれほど十全なものではないような気がします。そんなこともあって、書店で見かけて手に取って、読み始めたのが本書でした。

 

全体的にはバランスの良い科学哲学の入門書というイメージですが、科学的知識と技術知との違いに関する論述や、いわゆる人間科学に関する方法論の分析などは、英米系の科学哲学の教科書に馴染んだ人にとっては新鮮に感じられるのではないかという気がしました。

 

【満足度】★★★★☆

李承雨『真昼の視線』

李承雨 金順姫

『真昼の視線』 岩波書店

 

李承雨の『真昼の視線』を読了しました。本書の帯には「韓国でノーベル文学賞候補として注目される作家の長編小説」と書かれています。フランスをはじめとする海外でも評価の高い作家で、ル・クレジオなども李承雨を絶賛しているとのこと。

 

本書は単行本で130ページほどの中編小説(短編小説といってもよいくらいの長さ)ですが、冒頭で言及されたリルケの『マルテの手記』に登場する放蕩息子のエピソードをモチーフにして、数多の文学作品を参照しながら構成された「知的な」作品です。主人公が自分を捨てた父親に会いに行くというシンプルともいえるストーリーを、観念的な仕方で描いています。

 

人々が死んでゆくために集まる街がパリであるとは、百年前の記録とはいえ、共感しがたい。散策者を作り出したのがパリだという人もいるではないか。散策に向いているのは暮らしやすいということではないか。リルケは巡礼者たちが死を迎えるために訪ねていくパラナシについて聞いたことはなかったのだろうか。パリでなくパラナシこそ死ぬために訪ねていくところだ。今どきの言葉で言うと鳥はペルーに行って死に、人はガンジスに行って死ぬということだ。

 

いわゆる意識の流れの手法を使って書かれたといわれる、本書の語り手のモノローグは、あくまでロジカルで知的なものであり、いささか抽象的で観念的でもあります。個人的に好きな文体でもあります。著者の他の作品もフォローしてみたいと思いました。

 

【満足度】★★★★☆

アンソニー・ドーア『すべての見えない光』

アンソニー・ドーア 藤井光訳

『すべての見えない光』 新潮社

 

アンソニー・ドーアの『すべての見えない光』を読了しました。ピュリッツァー賞受賞作品で、日本では「Twitter文学賞」も受賞している本書ですが、長いこと本棚に読まれないままに置かれていて、最初のいくつかのフラグメントを読みかけては止めてを繰り返して、ようやくこのたびきちんと読み始めて、読み終えることとなりました。

 

幼い頃に視力をなくしてしまった少女と、孤児院出身でやがてヒトラーユーゲントに加わる少年。この二人の登場人物を軸にして、第二次大戦下のフランスを舞台に、時代に翻弄される人々の運命の交錯が描かれます。期待や前評判が大きかったからでしょうか、この分量(500ページ超)の作品を読んだにもかかわらず、物足りなさを覚えてしまいました。本には読まれるべきタイミングがあるというのが私の経験則なのですが、読む時期を厳選したつもりで、今がそのときではなかったということなのでしょうか。あるいは『メモリー・ウォール』を読んだときもそうでしたが、その調和的な作風に私が違和感を覚えてしまうことが原因なのでしょうか。

 

【満足度】★★☆☆☆

ウラジミール・ナボコフ『マーシェンカ キング、クイーン、ジャック』

ウラジミール・ナボコフ 奈倉有里・諫早勇一

『マーシェンカ キング、クイーン、ジャック』 新潮社

 

ウラジミール・ナボコフ(1899-1977)の『マーシェンカ キング、クイーン、ジャック』を読了しました。ロシア語で書かれた初期の作品を中心に、英語から重訳ではなく、ロシア語からの翻訳を中心にラインナップした選集『ナボコフ・コレクション』の一冊です。ナボコフの場合、第二言語である英語で優れた作品を書いていて、さらにはロシア語で書いた作品を自ら英語で書き直したりしているので、その異同も含めて研究の対象になるのですが。

 

「マーシェンカ」は叙情的な(少なくともそのように見える)作品で、鮮やかで美しい追憶の中のロシアの夏の描写が胸に残ります。その一方で主人公の現在を描くパートでは、「影を売る」仕事で糊口をしのぐベルリンでの生活をモノクロームの世界として描出しています。エレベーターの暗闇に閉じ込められる冒頭のシーンはその典型として感じられました。

 

「キング、クイーン、ジャック」は、若いフランツにドライヤー氏がデパートにおけるセールストークを叩き込むシーンが印象的で、ナボコフらしい文章だなと感じるのでした。

 

【満足度】★★★★☆