文学・会議

海外文学を中心に、読書の備忘録です。

ジェームズ・M・バリー『ピーター・パンの冒険』

ジェームズ・M・バリー 大久保寛

『ピーター・パンの冒険』 新潮文庫

 

新潮文庫で海外文学の新訳が続いていて、そのせいもあって普段はあまり手に取らなさそうな作品についても、まあ読んでみようかなという気分になって、本書『ピーター・パンの冒険』もそんなわけで読み始めました。

 

ピーター・パンといえばディズニー映画のイメージで、空飛ぶ小人がフック船長と戦うという筋立てを頭に描いていたのですが、少なくとも本書『ピーター・パンの冒険』の印象は、様々な意味でそのイメージと重なるものではありませんでした。この作品とは別に『ピーター・パンとウェンディ』という作品もあるようなので、そちらはもう少しこのイメージに近いのかもしれません。本書はイギリスのケンジントン公園を舞台に、ピーターパンが妖精や子どもたちとの冒険を行う物語。こう聞くと、やはりディズニー映画を想起させるメルヘンチックな筋立てを思い描いてしまうのですが、本書の読後感はそれとはまったく異なるものでした。

 

おそらく私がそう感じた理由は、主人公であるピーター・パンという存在の描かれ方にあるのだと思います。「ピーターの年齢はいつも一週間」で、「生まれてから七日目に、人間になることをやめた」といわれます。ピーターは「人間になんかならないで逃げてしまおうとした赤ん坊」であり、生まれた家の窓から飛び出したときは「翼がないのに飛べた」ようです。しかし、ピーター・パンは妖精ではありません。本書には妖精が登場しますが、それはピーター・パンという存在とは別物です。ピーター・パンはあくまでも、元々は人間の赤ん坊でしたが、いまは人間でもなく、鳥でもなく、妖精でもない、決して年を重ねることのない存在として描かれます。

 

門が閉じられた後のケンジントン公園で繰り広げられるピーター・パンの冒険の合間に、本書の途中で描かれるピーター・パンと母との別れの場面は哀切を感じさせるのですが、本書の最後には子どものお墓が登場して、これも読者に何かを思わせる道具立てです。単純なメルヘンだと思って読んでいると、思わず間隙を突かれます。

 

【満足度】★★★★☆