文学・会議

海外文学を中心に、読書の備忘録です。

ヴァージニア・ウルフ『燈台へ』

ヴァージニア・ウルフ 伊吹知勢訳

『燈台へ』 みすず書房

 

ヴァージニア・ウルフ(1882-1941)の『燈台へ』を読了しました。昨年の秋頃だったか、仕事帰りに立ち寄った古本市で、みすず書房の『ヴァージニア・ウルフ コレクション』の美本が安く売られているのを見つけて購入していたのですが、ようやく読書に取り掛かることができました。地下駐車場に停めた車の中で、わずかな灯りを頼りに読み進めていきます。

 

ヴァージニア・ウルフは私にとって鬼門の作家というか、学生時代に角川文庫で読んだ『ダロウェイ夫人』をさっぱり理解することができなかったせいで何となく避け続けていた作家なのですが、本作『燈台へ』は比較的読みやすく感じられました。いわゆる「意識の流れ」手法で書かれた作品への苦手意識も、多少は払しょくされたかもしれません。よくできた作品だな、と感じられるくらいまでには。

 

物語の前半では、スコットランドの島を舞台にして、ラムゼイ夫妻の別荘に集まった複数の登場人物の意識の流れを通して、その場の情景が描かれます。しかし、登場人物の意識を通してその内面が描かれるとはいっても、内面描写ばかりが続くわけではありません。

 

「でもお天気はいいかも知れません。きっとお天気になりましてよ」ラムゼイ夫人は編んでいる赤茶色の靴下を、がまんが出来ないという様子でひねりまわしながら言った。もし今晩中に出来上って、明日みんなが燈台へゆくなら、これを燈台守におくって結核カリエスになりかけているあの少年にあげたいわ。ほかに古雑誌一からげ、それからきざみ煙草少々、ええ、そう、何だってそのあたりにころがっているもの、本当は必要ではなくてお部屋にとりちらかされているだけのものを、あのお気の毒な人たちにあげたいの。

 

ここには通常の意味でのセリフに加えて、ラムゼイ夫人の行為の様子を描写する客観的な記述、そしてラムゼイ夫人の意識の中で独白されるセリフという三つの語りの位相があります。この三つの語りのレベルが自由自在に切り替えられながら、モザイク絵画を描くようにして、本書『燈台へ』は組み上げられていきます。

 

登場人物の一人である画家のリリー・ブリスコの存在は象徴的で、彼女は自分の絵画の中で、子どもに本を読んであげているラムゼイ夫人を「三角の紅紫色の形」として描くのですが、そうした表象の自由さと同時に、表象同士が織りなす全体が垣間見せるものを捉えることがヴァージニア・ウルフの目指したものなのかもしれません。しかし、私の理解はここまで。これから「20世紀の小説」をしっかり読んでいかなければ。

 

【満足度】★★★★☆