文学・会議

海外文学を中心に、読書の備忘録です。

コリン・デクスター『謎まで三マイル』

コリン・デクスター 大庭忠男訳

『謎まで三マイル』 ハヤカワ文庫

 

コリン・デクスター(1930-2017)の『謎まで三マイル』を読了しました。思考の霧の中を彷徨うことで事件の捜査を行うモース主任警部を主人公とするミステリ作品の一作です。いみじくも本書の解説の中で若島正氏も述べているように、ストーリーの筋立てにおける混乱ぶりこそがデクスターの持ち味だとすれば、本書はその特徴を十二分に発揮しているものになっていると思います。ただ、この「謎までの三マイル」は、あまりにも複雑な道程になっているのではないかと思うのですが。

 

【満足度】★★★☆☆

フェルナンド・ペソア『[新編]不穏の書、断章』

フェルナンド・ペソア 澤田直

『[新編]不穏の書、断章』 平凡社ライブラリー

 

フェルナンド・ペソア(1888-1935)の『[新編]不穏の書、断章』を読了しました。ポルトガルの詩人・作家であるフェルナンド・ペソアは、イタリアの作家であるアントニオ・タブッキが淫したことでもよく知られていますが、「異名者」と呼ぶ架空の詩人・作家として(そのペルソナを纏って)無数の遺稿を著しています。本書はそれらのテクストの中から断片的な箴言を訳者が独自に編集した「断章」と、ベルナルド・ソアレス名義で書かれた「不穏の書」の抄訳とから成っています。

 

私が死んでから、伝記を書く人がいたとしたら、これほど簡単なことはない。

ふたつの日付があるだけだ。生まれた日と死んだ日。

このふたつに挟まれた日々や出来事はすべて私のものだ。

 

この断章の言葉のある種の裏返しとして、「不穏の書」の中で展開されている自伝のようなものは「脈絡のない印象」であり「生のない私の物語」であるとされます。『ヘンリ・ライクロフトの私記』や『マルテの手記』をはじめとして、手記の形式で描かれた小説は私がこよなく愛するところの文学形式のひとつなのですが、リスボンに暮らす簿記補佐であるソアレスの手記であるとされる本書は、それらの先行作品に比べてもより透明な傍観者とでもいうべきスタイルで描かれているように思われます。その一つひとつの箴言なるものに、個人的な感想としては私自身が心惹かれるところはないのですが。

 

【満足度】★★★☆☆

アリ・スミス『冬』

アリ・スミス 木原善彦

『冬』 新潮社

 

アリ・スミス(1962-)の『冬』を読了しました。『』に続く四季をタイトルに冠した小説作品群の第二作目となります。シリーズ全体を通して登場人物などに緩やかな繋がりがありつつ、時事を小説世界の中に取り込みながら、場面や人物の心情についての断片的なスケッチのような描写を積み重ねてひとつの季節の記憶を描くという試みのようですが、好き嫌いは分かれる作品なのかもしれません。

 

人間も社会も人生も一筋縄でいくものではないことをきっちりと描くことができているという点は、優れた小説であるための必要条件なのだと思うのですが、本書に登場するソフィアとアイリスという老姉妹、ソフィアの息子であるアート、そしてアートの恋人を演じることになるラックスのいずれも割り切れない存在であり、一直線に進むことのないストーリーや、同質性と異質性を共に感じさせる社会背景など、読み応えのある作品になっていると思います。

 

【満足度】★★★

カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』

カズオ・イシグロ 土屋政雄

忘れられた巨人』 ハヤカワ文庫

 

カズオ・イシグロ(1954-)の『忘れられた巨人』を読了しました。ハードカバーで刊行された当時に読んで以来、訳7年振りの再読となりました。物語の鍵となる霧の存在感とそれがもたらす忘却の業のせいであるとは言わないのですが、私自身も物語の細部については忘れてしまっています。作者が得意とする曖昧さの中に偲ばせる毒の存在を怖れながら期待する心持ちの読書となりました。

 

初回の読書を終えたとき、私の印象に残っていたのは、霧の消滅によってもたらされた記憶の痛みだったと思うのですが、今回の読書ではその先にあるものに興味が移っていました。

 

「わたしはな、お姫様、こんなふうに思う。霧にいろいろと奪われなかったら、わたしたちの愛はこの年月をかけてこれほど強くなれていただろうか。霧のおかげで傷が癒えたのかもしれない」

 

読み返すたびに新しい発見があるというのは良書の徴だと思うのですが、本書は主人公である老夫婦の旅の道連れとなる様々な人物の群像劇としても良くできた物語になっていると思います。

 

【満足度】★★★

『ヘンリー・ジェイムズ作品集2 ポイントンの蒐集品 メイジーの知ったこと 檻の中』

大西昭男 多田敏男 川西進 青木次生 訳

ヘンリー・ジェイムズ作品集2 ポイントンの蒐集品 メイジーの知ったこと 檻の中』 国書刊行会

 

ヘンリー・ジェイムズ作品集2 ポイントンの蒐集品 メイジーの知ったこと 檻の中』を読了しました。収録作品のうち「ポイントンの蒐集品」は中編作品、「メイジーの知ったこと」は長編作品、「檻の中」は短編作品という扱いになるようですが、いずれも必要以上に長いと感じられてしまうのは、本書の解説でも散々指摘されていることなのですがヘンリー・ジェイムズという作家のひとつの特質ということなのでしょう。

 

もう少しコンパクトにまとまっていれば、「メイジーの知ったこと」のスリリングな展開や「ポイントンの蒐集品」の“操り”の構図などにもっと面白みを感じられたのだと思うのですが、私自身の感想としても各作品は少し冗長に感じられてしまって、この長さを生じさせている部分に魅力を感じられないとすれば、ジェイムズ作品を楽しむことも少し難しいのではないかと感じられてしまうのでした。

 

【満足度】★★★☆☆

阿部和重『グランド・フィナーレ』

阿部和重

グランド・フィナーレ』 講談社文庫

 

阿部和重の『グランド・フィナーレ』を読了しました。2005年に刊行された本書は第132回芥川賞受賞作なのですが、作者がそれ以前に発表した『インディビジュアル・プロジェクション』といった作品や、作者の故郷の地域を思わせる架空の地方都市である「神町」を舞台にした大作『シンセミア』などが読書界隈の話題をさらっていたことを思えば、芥川賞の受賞も何を今さらという感覚だったことを覚えています。

 

本書の刊行当時にハードカバーで読んだ記憶はあるのですが、今回は17年近くの歳月を経てからの再読となりました。高橋源一郎氏にしか書けないであろう解説を含めて、もやもやとした感想を抱きながらも、主題も文体も獲得されたよくできた小説であることには理解が及びます。

 

【満足度】★★★☆☆

ヘッセ『デーミアン』

ヘッセ 酒寄進一訳

『デーミアン』 光文社古典新訳文庫

 

ヘッセ(1877-1962)の『デーミアン』を読了しました。学生時代に岩波文庫で読んだときの訳題の表記は『デミアン』だったと思うのですが、こちらの方が原語の発音に近いということなのでしょうか。1919年に発表された本書は『車輪の下』や『春の嵐(ゲルトルート)』などに代表される初期の小説郡から『荒野のおおかみ』や『ガラス球遊戯』などの後期あるいは晩年に発表された小説に至るまでのちょうど中間地点に位置する作品で、今回何年ぶりかに新訳で読み直してみて、いろいろと発見の多い読書となりました。

 

本書を以前に読んだとき、物語の前半で語られる主人公シンクレアのナイーブな少年時代の記憶(「ふたつの世界」)と主人公のメンターとして登場するデーミアンとの繊細な関係性が、物語の後半において奇妙な地獄めぐりのような様相を呈していくこと(特にそれはデーミアンの母親でもあるエヴァ婦人に対して主人公が投影するイメージによく顕れていると思うのですが)に、どこか過剰なものを感じ取ったことをよく覚えています。本書の解説では、ユング心理学ニーチェの哲学などいくつかのモチーフが本書の構想に影響を与えている旨が指摘されていますが、そうした多様な思想を内包しながら、また第一次世界大戦という未曾有の時代変化を背景にしながら、この決してすっきりとまとまっているわけではない混沌とした物語は、ヘッセの文学的計算のもとで、まさにこのような形態をとるに至ったのだと納得させられる部分がありました。

 

クローマーとの一件にまでさかのぼって、ぼくはデーミアンとの思い出を記憶に蘇らせた。彼がかつて語った言葉の数々。そのすべてがいまでも意味を持つ。一向に古びていないし、ぼくに関わりがある。

 

主人公シンクレアのいっぷう変わった自己形成(Bildung)の物語は、ヘッセの文学の道筋を辿るようでもあって、読者である私にとっても本書はひとつの説得力のある物語として立ち上がってくるのでした。

 

【満足度】★★★★★