カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』
『遠い山なみの光』 ハヤカワ文庫
カズオ・イシグロ(1954-)の『遠い山なみの光』を読了しました。『日の名残り』と同様に学生時代に一度読んだことのある作品で、当時読んだのはちくま文庫で『女たちの遠い夏』というタイトルでしたが、早川書房から刊行されるにあたって現在のタイトルにあらためられたようです。原題は「A Pale View of Hills」です。
本書はイシグロ・カズオのデビュー作ですが、後年の彼の多くの作品と同じく、記憶にまつわる物語です。今はイギリスで暮らしている悦子(適当な漢字を当てて訳しているようです)が、新婚時代に暮らしていた戦後の長崎での暮らしを回想するかたちで物語は進むのですが、彼女がなぜ当時の夫と別れてイギリスに渡ったのかはまったくといっていいほど語られることはありません。当時暮らしていた長崎の近所で出会ったある母娘とのエピソードと、大戦を挟んで大きく転換した価値観に戸惑う義父とのエピソードが、物語の中心をなしています。そして、時制としては現在にあたるパートで二番目の夫との間にできた(と思われる)次女とのエピソードが展開されます。
何かが起こりそうでいて、ほとんど何も起こらない不思議な読み心地のする作品ですが、私もひそみにならって前回の読書の記憶という視点から感想を述べるとすれば、初読のときも今回の再読のときも印象に残ったのは、主人公の義父である「緒方さん」の姿でした。主人公の悦子から見た緒方さんは温厚な人格者ですが、彼は息子の知人でありかつての教え子でもある松田が教育雑誌(松田自身も教師をしている)に寄稿した論文で戦後リベラルの立場からかつての自分を批判したことを知って、そのことに強いわだかまりを抱きます。自分の息子から批判の手紙を書かせようとしたり、果ては自ら松田のもとに赴いて穏やかな口調で真意を問いただそうとしたり。ここには過去の記憶にとらわれて、その薄明かりのなかでしか現実を見つめられない人がいるのですが、相も変わらず私の心に残ったのはそんな人物の姿であったというわけでした。
未読の作品、再読の作品を含めて、この機会にカズオ・イシグロの作品はすべて読み通してみたいと思っています。
【満足度】★★★★☆