文学・会議

海外文学を中心に、読書の備忘録です。

ユルスナール『とどめの一撃』

ユルスナール 岩崎力

『とどめの一撃』 岩波文庫

 

ユルスナール(1903-87)の『とどめの一撃』を読了しました。ユルスナールの作品を読むのは今回が初めてです。ユルスナールのおよそ20歳年長であるヴァージニア・ウルフが『自分だけの部屋』の中で、その時代にあって女性が小説を書くことの条件について私論を述べていますが、フランスとベルギーの貴族の家系に生まれて幼い頃から西洋古典文学に親しんでいたというユルスナールはまさに「自分だけの部屋」を持つ、ある意味では選ばれた存在だったといえるのかもしれません。

 

小説作品を読むときに、それが19世紀に書かれたものか、あるいは20世紀に書かれたものなのかという問題は、私にとって読書のときの心構えにおいて重要な要因です。したがって、本書の中心的登場人物であるエリック、幼馴染のコンラート、そしてコンラートの姉であるソフィーをめぐって展開される本書の物語は、20世紀の作品として読まれるからには、何らかの文学的技巧ないしは実存的刻印が、最初から暗黙のうちに期待されているというわけです。華麗な文体も、ソフィーをめぐる実存的苦闘も、どちらも読みごたえがあるものでした。本書は中編と呼んでも差し支えのない長さの作品で、今度はユルスナールの長編作品についても読んでみたいと思います。

 

【満足度】★★★★☆

コルム・トビーン『マリアが語り遺したこと』

コルム・トビーン 栩木伸明訳

『マリアが語り遺したこと』 新潮社

 

コルム・トビーン(1955-)の『マリアが語り遺したこと』を読了しました。著者はアイルランド出身のジャーナリスト・作家で、現在ではアメリカの大学で創作を教えているそうです。本書は中編というよりは短編に近い長さの作品で、母マリアから見たイエス・キリスト磔刑の様子が描かれています。

 

西洋文学を読むにあたって聖書に関する知識が前提とされることはよく解っているつもりだったのですが、今回の読書ほどそのことを痛感したことはありません。とりわけ新約聖書に関する知識が乏しいばかりに、おそらく今回の読書の満足度は格段に下がってしまったのではないかと思います。残念ながら。

 

【満足度】★★☆☆☆

德永恂『現代思想の断層―「神なき時代」の模索』

德永恂

現代思想の断層―「神なき時代」の模索』 岩波新書

 

德永恂の『現代思想の断層―「神なき時代」の模索』を読了しました。閉店してしまう近所の本屋でセール販売されていたのを手に取ったのが、本書購入のきっかけです。岩波書店の本はこういうときに、ちょっと特殊な扱いを受けてしまうのですが…。そうしたきっかけがなければ読むことはなかったのではないかと思います。ウェーバーフロイトベンヤミンアドルノという四人の思想家を取り上げて、そこに「大きな物語」を見出そうというのが著者の試みです。

 

分析系の哲学書を読みなれていると、本書の著述が一体何を目指して、どういう道筋を辿って書かれたものなのか、皆目見当がつかないのではないでしょうか。そこまで言ってしまうと言い過ぎなのかもしれませんが、同じ「哲学」の営みでも、両者の間にはそれくらいに大きな隔たりがあるような気がします。私は著者の思いに幾分共感するよころもあるのですが、それでも哲学で論じられる主題の振れ幅というものには、いささかの当惑を感じてもしまいます。

 

【満足度】★★★☆☆

トーマス・マン『トーニオ・クレーガー 他一篇』

トーマス・マン 平野卿子訳

『トーニオ・クレーガー』 河出文庫

 

トーマス・マン(1875-1955)の『トーニオ・クレーガー 他一篇』を読了しました。本作は高校時代に読んだような記憶があるのですが、あまり確かなところは覚えていません。大学時代にもたしか新潮文庫の翻訳で読み直してみて、今回は河出文庫の新訳で読み返すこととなりました。

 

表題作冒頭のトーニオ少年とハンス少年の散歩の場面を読んで、その繊細さに感じ入った過去の記憶が蘇ってきたのですが、同時に今回の読書では故郷再訪の場面にしんみりとした情感を覚えるのでした。ノーベル文学賞受賞後の第一作として書かれた「マーリオと魔術師」は初読です。このファシズム批判の書を読みながら、ちょうど併読しているアドルノとマンとが、亡命先のアメリカで知り合いになったというエピソードが思い出されました。読書をしていると、しばしばこうしたシンクロニシティが起こります。

 

【満足度】★★★☆☆

イアン・マキューアン『甘美なる作戦』

イアン・マキューアン 村松潔訳

『甘美なる作戦』 新潮社

 

イアン・マキューアン(1948-)の『甘美なる作戦』を読了しました。原題は“Sweet Tooth”で直訳すれば「甘い歯」ですが、「甘党」というような意味で使われるようです。イギリスの情報機関「MI5」を舞台にした「スパイもの」の小説です。

 

私にとってはあまり「はまらない」読書体験が続いているマキューアンですが、本作は楽しく読むことができました。実在する情報機関の内幕を描いた(ある程度正確なものなか戯画化されたものなのか、実際のところは解らないのですが)お仕事小説としても読むことができる点が単純に面白かったのかもしれません。結末に仕掛けられたトリックについては「そうか」という感じなのですが。結局のところ、主人公セリーナにうまく感情移入ができたというだけのことなのでしょうか。

 

【満足度】★★★★☆

カズオ・イシグロ『充たされざる者』

カズオ・イシグロ 古賀林幸訳

充たされざる者』 ハヤカワ文庫

 

カズオ・イシグロ(1954-)の『充たされざる者』を読了しました。本書は彼の長編第四作目にあたる作品で、彼が現在までに発表している長編小説で未読だったのは本書だけです。『日の名残り』に続いて書かれた本書は、文庫本にして900ページを超える大部の作品となっています。

 

しかし、その分量に反して、小説の内容はといえば、内に閉じこもるような逼塞感を感じさせるものになっています。中央ヨーロッパの国のとある町、そこで開催される「木曜の夕べ」という催しで演奏するために町を訪れたピアニストのライダーは、町で出会う様々な人から、彼にとっては無関係と思われる様々な頼まれごとを受けます。その頼まれごとに対応している間に、何の準備も叶わないまま「木曜の夕べ」開催が迫ってくる…という本書の不条理な展開は、カフカの『城』にも比されることがあるようです。

 

正直にいえば、それほどは面白く読むことができなかったというのが初読の感想です。長すぎる遠回り自体をうまく楽しむことができなかったのでしょう。誰もが漠とした不安に囚われた世界にのめり込む時は、私にとって今ではなかったということかもしれません。

 

【満足度】★★★☆☆

サド『短編集 恋の罪』

サド 植田祐次

『短編集 恋の罪』 岩波文庫

 

サド(1740-1814)の『短編集 恋の罪』を読了しました。「サディズム」という言葉の由来となったといわれているフランス貴族、マルキ・ド・サドの短編選集です。本書カバーに描かれた解説によれば、本作に収録されているのはサドの「適法の小説」から選ばれた4篇とのこと。フランス革命(1789年)の時代に生きたサドの小説を読むのは今回が初めての経験でした。

 

悪徳が美徳を蹂躙する様を描くことこそがサドの作品の神髄であり、本書に付された小編「三文時評家ヴィルテルクに答える」を読むと、それが意識的な小説作法として読者を惹きつけるために行われたものであることが窺えます。現代日本の「昼ドラ」の作劇法にも似たような側面はあると思うのですが、シンプルに頷かされる部分もある主張だと思います。本書についても(筋立ての強引さに呆れながらも)読まされてしまう読書体験となりました。

 

ただ、いずれは『悪徳の栄え』や『新ジュスティーヌ』も読んでみたいとは思うのですが、世にはびこる悪徳の浸食具合に対して、しばらくはもういいかなというのが正直な感想ではあります。

 

【満足度】★★★★☆