『遅い男』 早川書房
J・M・クッツェー(1940-)の『遅い男』を読了しました。これまでどの作品を読んでも面白く感動できた作家というのは数少ないのですが、クッツェーは私にとってそんな稀有な作家のひとりです。本書は2003年のノーベル文学賞受賞後の2005年に発表された作品で、クッツェーがノーベル文学賞受賞後に移り住んだオーストラリアを舞台にしています。
主人公は自転車に乗っているときに車に衝突されて片足を失ってしまった初老の男、ポール・レマン。ポールは自意識やこだわりの強い独身男性(現代の日本風にいえば「こじらせた」人物)ですが、自分のもとに派遣されることになった介護士のマリアナ・ヨキッチに年甲斐もなく分別を超えた恋愛感情をいただくことになります。マリアナには夫と三人の子どもがいて、自らの感情を社会的に定式化することが困難なポールは、欲望に忠実なストレートな仕方での感情の発露に、「教父」を名乗る苦し紛れの道徳的姿勢を織り交ぜながら、マリアナやその家族との関係を切り結ぼうと試みていきます。
物語の冒頭を読み進んでいく限りでは、作者の分身であるのはポールかと思いきや、エリザベス・コステロという初老の女性作家(未読ですがクッツェーの別作品にも登場しているようです)が突如作中に現れて、この物語の屈折の度合いは高まります。強い自意識のなせる何重にも相対化された自我というものが、こうした分裂の元になっているのではないかと読めましたが、果たしてどうなのでしょうか。
狂言回しの役目を負ったエリザベスは、物語の中盤で人間の本質が複雑さにあることをポールに説きます。
これは不要な複雑さかしら? わたしはそうは思わない。文章のふくらみというのか。呼吸と一緒よ。吸って、吐いて。ふくらんで、しぼむ。生命のリズムね。ポール、あなたもっと充実した人間になれるのに、もっと大きくもっとふくらみを持てる人なのに、自分でそれを許そうとしない。だから強く言っておくわ。思考の流れを途中で断ち切らないで。最後まで追っていくこと。思考と感情の流れを。最後まで追っていけば、それとともにあなたは成長する。
こうしたクッツェーの創作論を交えながら進んでいくこの物語は、傍から眺めれば何かにつけて「遅い男」の物語として、作品全体を通しても相対化されながら、過去のクッツェーの作品とは一味異なるユーモアを纏ったものになっています。
【満足度】★★★★☆